雑草という名の草は無い

 

2023年の春から放送が始まるNHKの連続テレビ小説が、日本が世界に誇る偉大な植物学者、牧野富太郎をモデルにした『らんまん』に決まりました。主演は神木隆之介さん。テレビ放送の決定に合わせて新しい商品を開発するなど、牧野富太郎の出身地、高知県高岡郡佐川町では、地場産業や観光など地域活性化につなげようという機運が高まっているようです。町では、2022年4月24日に迎える生誕160年を祝うイベントを開催予定です。

草木の精

さて、タイトルの「雑草という名の草は無い」は牧野富太郎の言葉ですが、こよなく植物を愛し、心血を注いで研究に没頭し、まさに「雑草魂」の体現者であった牧野を実によく表しています。自身を「草木の精」と称した牧野が一生をかけてただひたすらに向き合った植物の世界は、千差万別の多様性があります。牧野は、多様性の価値を認め、それぞれの特性を等しく尊び、一生愛し続ける才能に恵まれていました。すなわち牧野は、現代においてSDGs(持続可能な開発目標)として示されている、人間と自然環境がどう向き合っていくかを問いかけ、ひとつしかないこの地球で暮らし続けられる「持続可能な世界」を実現するために進むべき道を考えるという思想を、当時から持ち合わせていたといえます。

植物は人間がいなくても少しも構わずに生活するが、人間は植物が無くては生活の出来ぬ事である。そうすると、植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫であるといえよう。つまり人間は植物に向こうてオジギをせねばならぬ立場にある。

『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』より
著者/牧野富太郎 出版社/平凡社 

牧野富太郎(まきのとみたろう)
植物分類学者。植物の分類に興味をもち、独学で世界的な鑑識学者となった。幼くして両親を失い、小学校も中途退学して、以後独学。 1878年頃博物学を教えていた永沼小一郎と知り合い、その影響で植物学を研究。東京大学教授の矢田部良吉に認められ、東京大学に奉職し、後年、日本学士院会員となり (1950)、1957年に文化勲章を授けられた(追贈) 。新種の記載は 500種をこえ、『牧野日本植物図鑑』(1940)をはじめ植物分類学に関する著書多数がある。
※「ブリタニカ・オンライン・ジャパン」より抜粋。「ブリタニカ・スクールエディション」にも収録されています。

オオイヌノフグリ外来種。牧野富太郎が命名した植物の一つ。命名の由来、在来種であるイヌノフグリとの違い、別名などを調べてみると面白い。

昭和天皇との交流

牧野の植物への知見は年を重ねるごとに深みを増し、1940(昭和15)年、御年78歳の時、研究の集大成である『牧野日本植物図鑑』が刊行されました。この本は改訂を重ね、驚くべきことに今も現役の植物図鑑として刊行され続けています。研究機関はもとより、植物愛好家たちの本棚には「牧野日本植物図鑑」が今も置かれ続けています。知らず知らずのうちに手にしたことがある人も多いかもしれません。

日本の植物分類学の礎を築き、前人未到の実績を積み上げた牧野の植物の普及活動は、皇室にも及びました。昭和天皇は、この図鑑を参照しながら植物観察をしていたといいます。1948(昭和23)年には、皇居に招かれて生物学者であられた昭和天皇へ植物学のご進講を行いました。牧野富太郎、86歳の時でした。また、昭和天皇の植物標本を初めて鑑定したのは牧野であり、昭和記念筑波研究資料館には、大正から昭和初期に牧野が鑑定した標本が現在も収められています。
 
そして、昭和天皇の静養中に侍従らが皇居周辺の草刈りを実施し、お帰りになった際に一部雑草を刈り残したことをお詫びしたところ、陛下が牧野の言葉を引用して「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決めつけてしまうのはいけない。注意するように。」とおっしゃったというエピソードも残っています。

ゆかりの地をめぐる

最後に、牧野富太郎の足跡をたどり、植物を存分に味わうことができるスポットを二つ紹介します。四季折々の彩りにふれ、自然との共生を考えながら、時にはゆっくりと過ごしてみてはいかがでしょうか。

高知県立牧野植物園(高知県高知市)
高知市の五台山という山の一部が植物園になっています。五台山は牧野が青年期によく訪れていた山で、植物園の広大な敷地内には牧野富太郎記念館、植栽エリア、温室、図書館、レストランなどがあります。また、建築家、内藤廣が設計した記念館は建築物としても一見の価値があります。サスティナビリティ(持続性)をテーマに、自然と人間が共生して環境を持続させていくための構造や設備の工夫がなされています。四季を彩る約3,000種の植物と建物が融合する癒しのスポットです。

牧野記念庭園(東京都練馬区)
牧野富太郎が1926(大正15)年から1957(昭和32)年まで約30年間、94歳で亡くなるまで暮らした自邸の跡地です。1958(昭和33)年より「牧野記念庭園」として一般公開されています。当時まだ野趣あふれる練馬区大泉で、牧野が自邸の庭を「我が植物園」として研究に没頭したその地には、約300種類の草木類が生育されています。


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