冬にエキサイトするなら、なんといってもアイスホッケー!

 

北京で開催された第24回オリンピック冬季競技大会が、2月20日に閉幕しました。日本のメダル獲得は金3、銀6、銅9個。よく頑張りました。一方で、メダル獲得はならなかったものの、その躍進ぶりで大いに日本国民を沸かせてくれたのが、アイスホッケー女子の日本代表チーム「スマイル・ジャパン」でした。

スマイル・ジャパンは1次リーグB組3勝1敗(B組1位)の成績で決勝トーナメント進出を果たす快挙を成し遂げました。決勝トーナメント第1戦(準々決勝)の対フィンランド戦では1-7と完敗しましたが、1998年長野冬季五輪の初出場(開催国枠)以降、出場3大会で勝利したのは、2018年平昌冬季五輪での1次リーグ、対韓国・北朝鮮合同チーム戦を含め2勝のみと考えると、この4年間の成長には驚くべきものがあります。

「男のスポーツ」という印象がいまだ強いアイスホッケーですが、実は130年前の1892年に、本場カナダのバリー(オンタリオ州)という町で、初めて女子同士の試合が行なわれました。アイスホッケーの競技ルールが整備されたのが1877年であることを考えると、意外に早いといえます。とはいえ、女子の世界選手権が開催されるようになったのは、約100年後の1990年、五輪採用はその8年後の長野五輪と、世界レベルの競技人口増加や認知までに非常に長い道のりをたどりました。

なお日本では、戦前に女子の試合が行なわれた記録があり、1972年札幌冬季五輪の翌年、1973年には初のクラブチーム、伊勢丹女子アイスホッケー部が創設され、1982年に第1回全日本女子選手権が開催されています。

その札幌冬季五輪は、アイスホッケーが日本で人気を獲得するのに決定的な役割を果たしました。日本は五輪開催を控え、1966年に日本リーグを設立し、代表選手の強化をはかるべく、日系カナダ人の若林仁・修兄弟ら外国の有力選手を招きました。とりわけ若林修の高度なスケーティング、スティックさばきはファンをしびれさせたものです。若林修は国籍を日本に変えて1972年札幌、1976年インスブルック、1980年レークプラシッドの3度の冬季五輪に出場し、レークプラシッドでは選手団の旗手も務めました(日本アイスホッケー界のレジェンド、若林修は2015年に70歳で他界しました)。ですが残念なことに、日本男子はレークプラシッドを最後に、開催国枠で出場した長野五輪を除いて、五輪出場を逃しています。

長いスティックを携え、防具で大きく膨らんだ体をガシガシと前進させ、ひとたびスピードに乗ればリンクを縦横無尽に動きまわる選手たち。しばしば起こるフェンスへの激突や選手同士のボディチェック(女子は禁止)。フッキングやハイスティックなど頻繁に起こりがちなラフプレーが招く選手のペナルディボックス(「ブタ箱」とも表現されます)行きと、これにより数的優位に立ったチームが仕掛ける波状攻撃、それに対抗する劣勢側の死にもの狂いのディフェンス。激しい体力消耗のため40〜60秒ごとに行なう選手交代。ゴール前やゴール裏での敵味方入り乱れての攻防。とにかくプレーする者、見る者すべてをエキサイトさせる要素に満ち満ちているのがアイスホッケーです。

女子アイスホッケーの先駆者たちも、きっとこの魅力にとりつかれたのでしょう。

スポーツそのものを体感するには競技場に足を運ぶのが一番ですが、アイスホッケーでは、室内会場に響き渡る衝突音やスケートやパックの摩擦音などがいっそう効果的に作用します。氷が敷きつめられたアイスホッケー競技場は非常に寒いですが、防寒対策を講じつつ、まさに「氷を溶かす」熱気で応援してみてください。

なお、北京五輪では女子はカナダが、男子はフィンランドが優勝しました。ともにフィジカル面、戦略面すべてにおいて、文句なしの金メダル。早く決勝の舞台に立つ日本チームを見てみたいものです。


上記のリンク先をご覧になるには、ブリタニカ・オンライン・ジャパンへのアクセス権が必要です。

ブリタニカ・オンライン・ジャパンは、中学校、高校、大学、図書館、企業など、国際社会で活躍する人のリサーチをサポートするオンライン百科事典データベースです。